lundi 28 février 2011

「出来事」 に忠実であること、それが人間になる道


« La musique n'est rien si on ne peut pas l'entendre. »

(音楽はそれを聞くことができなければ何ものでもない)


先日取り上げたばかりのアラン・バディウさん(1937年生まれ)についての文章に出会う。この部分、どこかでこの場のテーマとも繋がっているように見えるので、振り返っておきたい。

1988年に大著 「存在と出来事」 (L’Être et l’Événement)を発表したが、英訳されたのが2005年とのこと。主流からの距離を感じる。バディウさんの言う 「出来事」 とは、それによって主体を実行や真理との和解に至らしめるもの。全なるものを超え、揺さぶり、全ならしめないようにするもの。それは新しい可能性の創造であり、この可能性こそ真理である。主体にとって真理と出会うとは、「出来事」 に忠実に向き合うことなのである。バディウさんによる人間とは、すべての人間が共有する条件で規定される死や有限性から脱した時にしか実現しないもの。つまり、われわれはプログラムされていないし、無限、絶対、あるいは考えられている人間の性質を超えたものにも到達できるのである。そして、これこそが唯一の生の徴である。

ところで、ペーター・スローターダイクさん(1947年生まれ)はこんなことを言っている。ヘーゲルは哲学は日曜にやる贅沢な活動なのだと言った。しかし、その後の哲学者はそれを昼夜を問わない強制収容所の労働に変えてしまった。神が創造に一日の休息を必要としたのだから、人間は二日は休む必要がある。哲学は歴史を瞑想することなしには成立しないのである。

スローターダイクさんの言葉に従ったわけではないが、午後から瞑想のため散策に出ることにした。すでに解釈されているバディウさんのお話をさらにパラフレーズできないか探るため。その結果、このようなものが出てきた。

「われわれが日々の生活で出会うことの中に、存在に楔を入れる 『出来事』 が混じっているはずである。それに気付き、それに忠実に向き合うことから新しい可能性が生れる。その可能性を見出すことこそ真理の発見なのである。また、自らをプログラムされた存在と見る決定論を超え、人間として一般に想定されていることを超える視点を手に入れた時にしかわれわれは人間に成り得ない。全なるものとして存在しているかに見えるわれわれは、実はこの 『出来事』 が加わることによって初めて全なるものに近づくのである。『出来事』 を積み重ねる中で、われわれの生の証でもある無限や絶対に到達できるのである」

醒めて眺めると、すでに決められたジェネティクスだけではなく精神の(?)エピジェネティクスが重要になるとでも言えそうに見える。ただ、エピジェネティクスと言う場合、生活の中で起こる変化の結果を離れて見ている印象が強い。バディウさんの哲学は、外から刺激を受け入れるその時にわれわれがどう向き合うのか、その結果をどう処理するのかという態度に影響を与えそうである。それからこういうバージョンも浮かんできた。

「眼に見える変化(例えば、病気など)の場合もそうかもしれないが、気持ちの上でどうもしっくりこないと感じる瞬間に出会うことがある。それは、この状態 は自分ではない、自分が活かされるところは違うのではないかという違和感のようなものを感じる時である。その時は実は自分の中にある新たな可能性に繋がる 創造のチャンスなのではないか。そうなるかどうかは、ひとえにその変化にどう向き合うのかに懸かっている。その時に重要になるのが、自らの歴史に踏み込 み、考え、瞑想することなのではないだろうか。これは個人のレベルに限らず、社会や国についても当て嵌まるだろう。それを意識的にやるのか、やり過ごすの か。それがその社会の未来を決める。その社会の持っている新たな可能性を発見できるかどうかを決めることになる」


バディウさんは難しい形而上学を展開していると言われる。
その実物に触れる日が来るのか、そしてその日が 「出来事」 になるのか。
これから注意深く観察していきたい。


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