samedi 13 avril 2013

新しい 「知のエティック」 とサイファイ・カフェSHE


3月26日、27日、第5回サイファイ・カフェSHEを開きました。その時に話した内容には、このカフェの趣旨だけではなく、これからの知のあり方についての一つのアイディアが含まれていると思い、ここに転載することにしました。ご批判をいただければ幸いです。

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昨年、わたしの中で思考のあり方、知のあり方についての考えがぼんやりと纏まりを作ってきました。こうあるべきではないかという意味を込めて、それを新しい「知のエティック(éthique)」と呼び、大学や学会での講演で話してきました。まだ萌芽の段階ですが、その概略を特にサイファイ・カフェSHEでの営みとの関連でお話してご批判を仰ぎたいと思います。
この考えは、もともとはこれまでの試みでも触れたことのある19世紀フランスの哲学者オーギュスト・コント(Auguste Comte, 1798-1857)の人間精神発達の3段階法則を発展させたものになります。彼は社会学の創始者、あるいは最初の科学哲学者などと言われ、現代科学が採用した哲学である実証主義(positivisme)を提唱しました。また、アカデミアではなく、終生在野で活動した人物でもありました。
コントが提唱した人間精神の発展は次の3つの段階を経ることになります。第1段階は神学的(théologique)で虚構的な世界で、外界にある物体には超自然的な力、あるいは神的な性質が宿るとする呪物崇拝(fétishisme)から始まり、多神教(polythéisme)を経て一神教(monothéisme)に至る過程です。第2段階は形而上学的(métaphysique)で抽象的な世界で、次の段階に至る過渡的なものになります。そして、最後に来るのが実証的(positive)で科学的な段階で、人間の精神が辿り着く最高の状態であるとしています。最終段階のpositiveな状態に対するnegativeな段階とはその前の形而上学的段階を指しており、それを乗り越えて実証的段階に向かうとコントは考えました。それから、第一段階を幼児期、第二段階を青年期、最終段階を成熟期とも捉えており、人類の精神の発展過程が個人の精神の発達過程にも当て嵌まると考えていました。すなわち、前者を系統発生とすれば、個体発生にもこの法則が有効であると考えていたことになります。
人間精神が到達する最高の段階を体現する哲学は、実証主義(positivisme)と言われます。この実証主義は、経験から得られたものを論理的、数学的に処理したものだけがすべての有効な情報の基になり、省察や直観から得られる形而上学的な知を拒否する立場です。現代科学はこの哲学的立場を取り込むことにより発展してきました。つまり、形而上学、所謂哲学は現代科学の対極にある相容れない存在として捨て去られたのです。捨てなければ最高の状態には達しえないとコントは考えたわけですが、現代のほとんどの科学者もそう考えていると思います。わたし自身も現役の時には形而上学はおろか哲学という言葉さえ頭に上ることがありませんでした。その結果、科学が内包する価値や意味について科学は考える必要がなくなっただけではなく、それに言及することは科学的でないとされるようになりました。ハイデッガー(Martin Heidegger, 1889-1976)が看破したように、科学は考えなくなったのです。
科学の現場から距離を取り、哲学の領域から科学の状況を眺めるようになる過程で、わたしの考えが次第に変容していることに気付きました。コントの考え方の中には過去の考え方をすべて捨て去り、前に進むという進歩の思想が組み込まれているように見えます。しかし、過去にあった考えをすべて捨て去ることで多くのものを失っているのではないかと考えるようになったのです。それは、人間が本来持っている頭の使い方としては貧弱なものにしか齎さないのではないかという疑念に繋がりました。つまり、現代科学が採っているものの見方だけで人間の持つ思考の豊かさを十全に発揮できるだろうか、と自らに問い掛けることになったわけです。
それは、コントの言う第三段階の後に新たな段階を迎えなければならないという考えに結晶化しました。新しい第四段階となるその状態とは、第1段階の神学的なもの、第2段階の形而上学的なものをも科学的な第3段階の現在に引き上げ、人類の辿ってきた思考方法のすべてを取り込んで観察し考える世界をイメージしています。「科学の神学・形而上学化」とでもいうべきもので、フランス語で形容するとすれば、théologico-métaphysicalisation de la science(英語では、theologico-metaphysico-scientificな見方の動員)による新しい知の構築です。つまり、最高の知とされる科学知を事実の記載に留めるのではなく、科学知について人類が経験した思考方法のすべてを動員して考え直すという態度を導入することを意味しています。知識で終わる世界ではなく、知識から始まる世界を目指すことになります。
 「科学の形而上学化」などと言うと、そもそも対極にあるものを融合するような印象を与え、時代を逆行するのかという批判も聞こえそうですが、これは科学の現場に形而上学を持ち込むことではありません。現状では科学の営みと哲学などによる科学についての思索との関係がほぼ完全に遮断されていますが、そこに風穴を開け、両者が繋がることを当面の目標にしています。今は全くの真空状態にある科学を取り巻く環境に哲学的視点からこの世界を見ることの意義を注入することにより、科学者の意識をより重層的にこの世界を理解しようとする新しい知に開くことをその第一歩としています。
この試みでも何度か触れているデカルト(René Descartes, 1596-1650)の「哲学の樹」を基にこの問題を考えてみますと、次のようなイメージが浮かんできます。デカルトはすべての知(当時のphilosophie)の根に形而上学(現代の哲学)があり、幹が物理学で、そこから出る枝が医学や工学などの個別の科学であるとしました。しかし、個別の科学は形而上学から出た枝であるにもかかわらず、成長の過程でその根を切り離し、今ではほぼ完全に忘れ去った状態にあります。そのため、思考することのなくなった科学は自らを取り巻く問題に対応できないだけではなく、新たな社会問題をも生み出すことになりました。これからも生まれ続けると予想されるこれらの問題を解決するためには、「デカルトの樹」の逆転が必要になるのではないでしょうか。その世界では、忘れ去られた哲学がすべての学問を上から照らすものとして蘇り、科学者の意識に新たに上ることになります。つまり、個別の知識で終わる世界ではなく、集められた知識を批判的な視線の下に組み合わせ、関連付けながら統合するという精神運動による新しい知の確立を目指す世界になります。そのためには、専門に埋没する中で哲学に対して閉じている科学者や医学者の意識を哲学の側が新しい知のエティックへと開くように働きかけることが求められます。
この問題に関連させながらサイファイ・カフェSHEが目指す知について、わたし自身の経験を絡めて考えてみたいと思います。その経験とは、日本が行う仏検とフランスが行うDALFというフランス語の語学試験になります。結論から言いますと、仏検ではフランス語の知識が問われるのに対して、DALFではフランス語を使った思考が問われているように感じました。すなわち、仏検では単線的な対応(例えば、動詞の名詞化、穴埋め、書き取り=書き写しなど)が求められる答えが一つの世界で、知識を問う目的には叶っているのかもしれませんが思考の必要はなく、何處までも小手先の作業に終始します。これまでの比喩で言えば、事実で終わる世界です。
 一方のDALFでは「もの・こと」の関連付けや動的な思考が要求され、自らがその結果を紡ぎだす必要があります。答えは一つではありません。休眠中だったわたしの脳は、そこで展開される自由な精神運動に初めてのような喜びを感じていたことを鮮明に思い出すことができます。いろいろな事実が平面上に何の関連もなく並べられた世界ではなく、一つひとつの事実から始まり、それらが有機的に繋がりながら垂直方向に立ちあがっていくイメージを持つ新たな世界がそこにはありました。それほど大きな違いを体感していたことになります。仏検の世界をこれまでの知の状態だとすれば、SHEが目指すのはそこに留まるのではなく、DALF的なダイナミックな思考を動員した新たな次元の知を構築する世界とも言えるものです。少し大きく言えば、それこそが日本がこれから採るべき思考様式ではないかと考えています。
 第5回サイファイ・カフェSHEでの発表から


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